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書評

山内昌之著『帝国と国民』岩波書店2004.3.刊行

『東洋経済』2004.6.26. 122

橋本努

 

 

 「帝国」の概念を視軸に、近代史の総体を縦横無尽に論じた驚くべき著作である。帝国主義の終焉、国民国家の生成、開発主義と差別問題、ポスト冷戦後の文明論的概観など、現代世界を語る上で必須のテーマがぎっしりと内容豊かに描かれる。

 一般に「帝国」というと、国外の領土を支配する「侵略主義国家」をイメージされるかもしれないが、少数民族や被抑圧民の視点からすれば、帝国とは専制君主たちの群雄割拠を抑止するための歓迎すべき統治である。帝国にはつねに光と影の両側面が付きまとう。例えばアメリカのイラク攻撃は、一方では超大国の覇制を強化するとしても、他方ではクルド人その他をサダム・フセインの圧制から解放するという評価すべき側面をもっていよう。著者はそうした帝国のもつ両義性を深く歴史のなかに見据えつつ、今アラブ諸国に必要なのは、国民国家の神話的正統性を強化すると同時に、市場開放によって経済的統合を推し進めることだと主張する。

現在、アラブ諸国間の貿易は、アラブの対外貿易全体のわずか七%から一〇%を占めるにすぎず、域内経済はほとんど未発達である。また人々は文語アラビア語を共有するといっても、域内ではインターネットのソフトや携帯電話の規格が異なり、市場統合を阻んでいる。加えて、アラブ全体の書籍の出版数は世界の〇・八%であり、年間三三〇冊の翻訳書は、ギリシアで翻訳される本の五分の一にすぎない。こうした経済的・文化的未成熟を克服しなければ、イスラム文明の統合などありえないであろう。イスラム原理主義による精神的統合を夢想するよりも、現実的には域内のグローバルな経済統合を推し進めるべきだと著者は考える。

しかし、アラブ諸国が国民国家を脱して一つの帝国を目指すべきなのかというと、著者は否定的だ。確かにオスマン帝国の解体以後、中東の国際秩序は欧米の帝国主義によって分断されてきた。だがその人工的な国家形成を否定してしまえば、フセイン大統領がクウェートを侵攻したように、領土をめぐる紛争が常態化するであろう。国境の線引きが恣意的だとしても、すでにアラブの諸国は主権神話を用いて利益を得ているのだから、その利益を正当化して平和を築くことが現実的な選択肢である。著者によれば、アラブ諸国のエリートたちに課せられた責任とは、国民国家の神話的正当性を強化することでなければならない。イラクについて言えば、これを三つの地域からなる連邦国家として構成することが望ましいという。広範な歴史研究に支えられた卓見というべきであろう。

 橋本努(北海道大助教授)